フィッシュマンズ、jan and naomiには無音を超える静謐がある。

音楽に求めるモノというのは人によって、その時の気分によって様々だと思います。

励まして欲しい、落ち着きたい、テンションを上げたい・・・。

まあ死ぬほど安易なカテゴライズですけども、何らか目的があって聞くことが多いんじゃないでしょうか。

かくいう俺にとっての目的というのは「文化の探求」です。まあこんなこと言うからサブカルクソオタとか言われちゃうんですけども・・・。

けどもまあマジです。多少はありますけども、基本的には自分の感情とか嗜好とか関係なく「これはすごい!」と思えるものを求めて日々音楽をディグっております。

ちなみに先日、音楽愛が強過ぎるが故に作業用BGMが中々見つからないという悩みを記事にしました。

 

gatikuzujanai.hatenadiary.jp

 

でまあ色々と聞いていく中で良曲に出会ったときは当然興奮するわけですよ。

「ウッヒョー!」「エッモ!」「沁み入る」「ええわあ・・・」なり。

ですがフィッシュマンズ、jan and naomiを聞くとこうなります。

 

「・・・・・・・・・・・」

 

何の感情も湧かない。間違いなく素晴らしいけども感情がゼロになるという。

BPMが遅いとかそういう理屈だけでは説明がつかない無に持っていかれるパワーがあります。

 

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彼らの楽曲を聴いた後では他のアーティストの曲がうるさく感じてしまう。

新雪の青さは白より白っていう話を聞いたことがありますが、そんな感じ。ただの無音よりも静かです。

で、ここからは完全に俺の妄想なんですけども、その理由は「表現したいものの深さ」にあるんじゃないかと。

これ、めちゃめちゃ語弊を生みそうなので解説すると、一般的に何かを表現する時ってその時の感情によるところが大きいと思うんですね。

「俺らかっけえ!」とか「売れたい!」とか。

あぁ、例えが陳腐すぎて世のアーティストに申し訳ない・・・。

まま、こういう表現が悪いということではなく。むしろ大っ好きです。MOROHAに何回泣かされたことか。いわゆるウェットな音楽です。

で、こういった感情をそのまま表現としている楽曲に対して、フィッシュマンズ、jan and naomiの両グループの楽曲は感情を一度咀嚼してから表現されたものなのではないかと。

「あぁ自分はこの事をこういう風に感じるんだなあ」っていうような一歩引いたスタンスで物事を感じ、より抽象化した段階で表現につなげているのではないのかなと思うわけです。ドライな音楽ってやつですね。

そしてそのような俯瞰的視座で作られた楽曲を聴くと聴衆もその視座に引っ張られ、己の感情を抽象化するようになり、無の境地に至ると。

まあまとめると表現したいものが抽象的なもので、それに感情を無にするパワーがある、ということですね。文盲の自分を呪いたい。

 

と、いうわけで情報社会に飲み込まれ日々あくせくしているみなさん。

是非ともフィッシュマンズ、jan and naomiを聞いてみてください。そこには一刻全てを忘れる無音を超える真の静謐が横たわっております。

で、その後MOROHA聞いてみてください。

「高低差ありすぎて耳キーンなるわ!」があなたを待ち受けております。